2007年8月27日月曜日

文化のみち二葉館




  建物は、大正9年に建築された当時に戻って復元建設されています。写真2ライトアップの中央より右は、設計図が残っていないので類似の建物と残っている写真を 元に建築。左部分は平成12年に解体して部材が保存されていたので大正9年創建時に戻して建設。再建前は、東二葉町にあって「二葉御殿」と呼ばれていたので公募で表題の名前が付きました。
 ここには、日本の女優第一号の川上貞奴と電力王福沢桃介が大正9年(1920)から15年までの6年間を暮らしていました。

川上貞奴
 明治4年(1871)生。16歳で芸者に、23歳で自由民権思想の壮士芝居で有名な川上音二郎と結婚。川上一座でアメリカ巡業に出、女優として舞台に立つことになった。明治33年(1900)パリ万博でマダム貞奴と呼ばれるほど有名になった。音二郎の死後、福沢桃介の電力事業パートナーとして、また自らも事業家として児童楽劇団、川上絹布などを経営しました。
福沢桃介
 明治元年(1868)生。福沢諭吉の次女ふさと結婚。名古屋電燈を経て大同電力(中部電力の前身)を設立。木曽川水系の電力開発をすすめ電力王といわれました。桃介が手がけた発電設備は、近代化への遺産として国の重要文化財として指定されたものもあり、現在も稼動しています。
写真1.「文化のみち二葉館」全景。写真2.まるはちの日のライトアップ。写真3.同イベントとステンドグラス「初夏」。
常駐ガイド
 火曜日、木曜日、土曜日の11:00と13:30に会員がガイドをいたします。

主税(ちから)町長屋門

江戸時代後期の建屋で住人が石高500石の記録があります。その改築ですが建築年代は不詳です。明治19年からは軍の第三師団長の官舎として使用されていました。内閣総理大臣になった桂太郎も明治24年から同28年まで師団長を務め、ここに住んでいました。
昭和46年に長屋の一部が撤去され、門が残され改築されました。、界隈唯一の江戸時代の建材使用です。

栄光館と牛馬用水

明治22年、ランドルフ女史によりこの地方3番目の女学校として創設されました。左の栄光館は、昭和11年に講堂兼礼拝堂としてスパニッシュにミッションスタイルを加味して建てられました。費用は、先生、生徒の募金や米国教会婦人会からの寄付で賄われました。右の赤レンガは、田舎道の傍らにフローラ・バンス女史の寄付で牛馬用水(車を牽く牛馬のための飲み水)が造られましたが、今では構内に移動してあります。4月28日の学生さんは、この学院の学生さん達です。栄光館は都市景観重要建築物です。


旧豊田佐助邸

大正12年建築といわれる和洋併設のタイル張りの2階建て洋館と豪壮ではあるが絢爛豪華とは言えない実用的な2階建て和風建築です。洋館の裏手に生活部分の建屋がありましたが、老朽化が激しく平成7年に解体されてしまいました。現在所有者のアイシン精機より名古屋市が維持管理を任されています。
火曜日、木曜日にはガイドボランティアが常駐ガイドをしています。

料亭 か茂免

明治44年に建築されたこの建物は、大阪の洋紙商でワラ半紙などの発明で財を成した中井巳次郎の旧名古屋邸です。一室ごとに特徴があり「猿面茶屋」を模した離れの茶室や、四季折々に見事な庭園からなっています。戦前賀陽宮が名古屋師団長の折、宿舎になっていたこともありました。戦後、税対策上から売却され昭和23年から「料亭 か茂免」として営業されています。







2007年6月5日火曜日

桜井邸


白壁町筋の続き:町並み地区で一番年数を経ている「桜井邸」です。明治38年の建築です。生糸の帝国撚糸の専務をしておられた桜井善吉氏が自ら設計をされ建てられた洋館です。昭和と平成の二度に亘って改修をされてはいますが外観では100年前の面影が保存され、明治時代の住宅としては、名古屋では最古の住宅に属すると言えましょう。
桜井家は、尾張藩士700石の家柄で、家康と同じ松平一族で桜井松平です。家紋は二葉葵です。

2007年4月28日土曜日

武家屋敷の門と塀




大正7年に建築されたトヨタ自動車の初代社長豊田利三郎氏の屋敷跡で、武家屋敷門(薬医門)と武者窓を持った塀だけが残されて高級マンションになっています。門と塀は都市景観重要建築物に指定されています。先回の「文化のみち百花百草」の向かい側に残されています。町内の高校生の「わが町を知ろう」の授業に協力もうしあげ、ガイドをしています。